啓蟄

卒業してからも何度か東京からこの日に電話していた。青春の思い出、つぎ子の誕生日だ。自分の価値観に強烈なインパクトがあった女性。始めてコンプレックスを味わった友人。大学生の自分にとってすべてが雲の上の世界に見えた。あれが自分にとっての啓蟄だったのだ。芽を出した世界がこんなにも広くて、地面から見上げた眺めの大きさはただただ驚くばかり。ポカンと口を開けていただけだった。今から50年も前の時代に家族旅行でシンガポールに行くのだと聞いただけでノックアウトされてしまった。それに引き換え自分は東京すら外国だった。自分が育った周りの人たちはみな商業学校を卒業して家業を継いでいた。井の中の蛙がつぎ子のお陰で別世界の存在を教えられたのだ。そのつぎ子の訃報を知ったのはロンドンの社宅を訪ねてきた友人からだった。いつか又あえるといいなと大事に閉まっておいたのに。いつか会いたいと思っていた人は他にもいた。おおあな妃もいづみちゃんも夭逝している。せめて生ブリちゃんと言葉を交わしたい。できたらデュエットもと。そんなおめでたい自分だが、あの時の小さな穴はレーザーナイフのように奥底までチクリと届いた。アンニュイ青春は終わったのだ。

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(カーテンの共布で作ったクッション。カーテンはもうありませんが、あの頃の思い出です。)