外圧も悪くない

ネガティブな響きの外圧ですが、日本の歴史では外圧によっていい方向に向かってきたように思っています。封建制度から近代国家に向かいはじめたのは開港をせまる欧米の外圧。成金宰相の暴露記事に反応が小さかった世論が外国人記者の指摘で現職中逮捕に発展。最近でも、セクハラを取り上げなかった日本のマスコミに代わって、英国記者の外圧で世論が激変した。日本の国民性は外圧に弱い、外圧がなければ変われない、そういうことかもしれません。自らの気付きによる自浄作用というのは理想的ではあるが、なかなかハードルが高い。その気づきでさえ、なんらか外からの指摘がないとできないのでは。自らを客観的に見るというのはなかなかできるものではない。企業の内部監査制度も自浄作用のあるなしで、全く違ったものになる。トップの意識の問題かと。どうしても外圧がないと変われない会社は大きな外科手術が必要になりますが、それでも外圧でよい方向に導かれます。いわゆる医者嫌いの人は自覚症状をとことん隠します。その周りも同じ価値観だと、ますます最悪の方向に進みます。日頃の健康診断を怖がらず、嫌がらず受ける姿勢が大事だということです。大きな外圧を受ける前に小さな外圧をキャッチできるかが分かれ目ですね。

(変哲もない写真ですが、大好きです。リビングを癒してくれています)

小さなこだわり

コスパを求める生活のなかにもこだわっているものがある。オリーブオイルは少し高くてもイタリアのを選ぶ。烏賊はスルメイカ。正月の祝箸の袋は水引付きのものをと。子供のころの実家では正月の三日の朝、祝箸の袋の底を箸で貫く習わしがあった。その土地に古くから伝えられてきた正月の精進料理、三日の午後からは解禁となり、夕飯はすき焼きだった。その昔村に疫病がはやったので、その戒めとしての風習とか。雑煮は麹が浮かんだ白みそで、肉というものはNG.カツオや雑魚のだしもNG。色野菜もなくほぼ真っ白で不味そうにみえるが、なかなかいける。重箱は5段がさねで、今はやりの通販のよりでかい。だだ、中身が精進料理だから、何をどうやって詰めていたのか思いだせない。裕福ではなかったが、お重と雑煮の黒いお椀は漆器だとおもう。今ほど高くなかったのだろう。実家の姉にまだ捨てずに残してあるか探してもらっている。塗りなおして、正月の飾りにしようかと。サイズが大きいので今や実用的ではないからだ。こんなことですこしでも昔の面影をのこして、子や孫につたえたいと思うようになってきた。年だねといわないでください。なかなかできない、いいことなんですから。

(こんな写真なかなかとれないと思って残しておいた。アップするのを

 忘れていたようです。)

盛りだくさんだった週末

同居する次男が墓参りをしたいというので、実家の姉に頼んで花とか段取りしてもらった。この立派なお墓をゆくゆくはどうするのか課題はあるが、墓参りはそれなりの意義があるように思える。そして姉も一緒にお笑いの本拠地で、漫才・落語・奇術・新喜劇を初体験。いまだ修理中の動くカニの名物看板のお店で蟹づくし。そのすぐそばの橋からみえるネオン広告の写真を撮って3人は解散。自分はというと翌日の仕舞出演の着物がはいったキャリーバックをコインロッカーからだして能楽堂近くのホテルにむかった。翌日久々に流友と趣味の空間に没頭し、二次会までも。それでも毎週見ているドラマの最終回がみれて就寝。三日目の日曜日はかねて狙っていた京都の有名コーヒー店にて本店限定のケーキセットを、30分も並んで味わった。昼食が中途半端となったが、二条城に直行。鴬張りの廊下で思い出した。遠い以前に来たことがあるなと。盛りだくさんだったが、なにかピリッとしたものがなかったなと思いつつ、羽田でリムジンバスの時間まで非常食のビスケットを座って食べていた。すると目の前をマイタイプな女性が通り過ぎていった。その人が乗車待ちの列で行き先を訪ねて横からのぞき込んできた。あ、この人と、ご縁がと思いきや、行き先が次発だった。些細な事でも一瞬のキュンを味わって、救われたのでした。チャンチャン。

(今年も咲いてくれました。長持ちが得意です。いじらしくも、
  健気でもあります。今年ますます気に入りました。)

 

おたのしみ会

コロナ明け最初のおたのしみ会が終わった。日本語ボランティアも懇親的な催しを中断していたので、コロナ直後入会の自分もふくめ初めての経験の人が多かった。日本人同士でパーティーをすると、顔見知りどうし長く話しがちで、一人でやってきて孤立している人が何人かはいる。ホスト側としては、そんな人を見れは声をかけたりしたものだ。が、外国人はちがった。見回してもポツリと立っている人がいないのだ。まあ、日本に来て積極手に日本語をならうような人だからなのかもしれないが、流石だと思って全体を観察していた。いつものレッスン時間を三十分短縮し、教室の机を並び替え、テーブルと荷物置き、壁際に椅子と準備した。食べ物係が買い出しに行く間、自己紹介をして間をつなぐ。アルコール抜きだけど、みんなしゃべり、食べて飲んで、ゲームをしと、あっという間の2時間だった。多めに用意したのと依頼しなかったのにお国の料理をもってきてくれたりとかで、たくさん余った。それは想定して用意していたフードパックに各自好きなのをつめてテーブルはまもなく元の景色に戻った。準備はそれなりに大変だったが、終わってみるとやってよかった感が残っている。今でも。

(この夏の猛暑で一旦全滅したかにみえた、ホトトギス。咲いてくれて

 感謝、感謝です。)

マッカサーとせぇむさん

5年前の退職した会社の創業100周年記念パーティーが終了予定時間を超え始めた。昨日早朝に亡くなった叔母のお通夜が7時に始まる。地下鉄、JRと乗り継いで品川からのぞみで新大阪、さらにJR二本で堺市駅に到着。目と鼻の先に式場が見えたので、間に合った。父の弟であるご主人が働き盛りで亡くなったあと、叔母は残された学生寮アパートを切り盛りし、94歳まで頑張った。町工場で父はマッカサー、叔父はせぇむさんと呼ばれていたと記憶する。従弟とは年も近かったのでチャンバラとかよくやっていた。3年前の母の葬儀には会っているが、久々感がつのって会話が弾んだ。叔父は父の会社を辞めたあと自宅横の会社の倉庫だった土地に学生寮を立てた。家業が別々になり、子供の成長とともに以前のような一体感は無くなったが最も近い親戚なのは変わっていない。翌日の葬儀、火葬と最後まで参列し4時半に終了。帰路はマイルで飛びました。非日常の二日間。あっという間で、そこそこの疲れはあったが、心は満たされていた。コロナ禍で儀式は縮小気味だが、孔子のたまわく、儀式はそれなりに意味、意義あるのだ、を実感した。

(実家にシュロ竹の鉢植えがあって、正月だけ玄関脇に置いてあった。

 100均を見ていたらシュロ竹のミニ版があったので、懐かしくなった。

 小さいのもなかなかいい。そのうち本物を買おうと思っている。)

引いてもダメなら

押してもダメなら引いてみな、が普通なんだけど、今回は違った。ホバート空港に着いてシャトルを呼ぼうと電話したのに出ない。仕方なく3倍料金のタクシーでそのダメ評判のホテルに到着。うがいとかいろいろしているうちに、洗面台の排水栓が閉じたままで開かないことに気が付いた。どこにも開閉の操作レバーが見当たらない。流石ダメホテル、欠陥工事か。乗馬レッスンの終わる三日後にもう一度戻ってくる。同じ部屋でないことを祈りながら洗面台に向かった。排水栓が3ミリほど浮上していた。で、おもむろに押してみたら栓が閉じた。それを押すと開いた。アー疲れた。なんで気付かなかったのよと。久々に礼服を着た時もそうだった。ウエスト調整型のズボンがきつくなっていたので、調整しようといくらレバーを引っ張っても動かない。諦めていたところでふと押してしまったら、摩訶不思議。アー笑っちゃった。さかのぼること40年ほど前。いとこの結婚式にその弟の車で安曇野まで連れてってもらった。当時まだ外車が普通でなかったが、彼は不動産関係の仕事で必要なのだと、髪型はパンチパーマだったので、ちょっと違うような気もしたが、アメ車に乗せてもらうのも悪くなかった。その車がパンクした。持ち上げるジャッキも日本のとは違って、あげるのは簡単だったが、下げる方法がわかるまで30分以上かかった。諦めかけた時にふと手が当たってレバーを上げてしまったら、一段さがったのです。下げるのに上げるなんてと。アーほっとした。思えば人生もこんなことの繰り返しかな。そのときの爽快感。まだわかってない、気づいてないこともたくさんあるのだろう。その都度の快感、この先いくつ味わえるかなと。

(トイレの窓のブラインド。いつもは上にあげているが、女性のお客があったので

 こんな風に使ってみた。悪くない。これも何かのきっかけで気付いたこと。)

機上で涙ぽろぽろ

ホバートからシドニーに、国内線エコノミークラスの座席は左右3っつずつ。あの時もトイレのことを考え通路側を選択した。窓側と真ん中の席には少し年下の60代くらいのカップル。通常男の方が真ん中にというか同性の隣に座るようだ。日本と同じように飲み物程度のサービスで時間がたっぷりある。いつも常備している文庫本をとりだして続きから読み始める。ちょうどいいところだったのか、すぐに涙が出始めてとまらなくなった。隣の男性の視線を気にしながら、拭こうか、手かハンカチか。手の方が気付かれにくいかと、指先でそれとなく。でも頻度が増したので気付いたにちがいない。涙がとまらなくなるのは、コンタクトレンズの装着不具合の時か、映画、テレビ、本とかで感動した時。なぜか悲しいときに涙が出たことはあまり記憶がない。趣味の能の謡を自習しているときも、続けられなくなることがたまにある。タスマニアでの乗馬レッスンが所期の目的を達した満足感と母国に向かう安堵感もあたったのだろう、異常な量だった。疲れ目には涙が一番などと、自分への言い訳も考えながら、充実した2時間となった。ちなみに着陸後空港出口のカフェで昼食にミートパイを食べながらの汐待、1時間。まだまだチェックインには早すぎたが、運よく部屋が用意されていた。で、部屋で続きを読んで、また涙。

(引き続きタスマニア、オーフォード。日本にもこんなとこきっとあるのでしょう。

 自分が知らないだけ。90まで生きていたら、国内のそんな所に行ってみようとぞ

 思う。)