チームと絆

ラグビーやサッカーなどの試合後にする勝者インタビューではたいてい”チーム、絆、One for all, all for..."という言葉が含まれている。また、昨今の新卒就職戦線では体育会系クラブの経験が高めに評価されていると聞く。このチームがもし国家の場合、相手チームとの関係には危険が伴う。同じチームや仲間ではない他国にたいしては冷酷になりかねないからだ。国家レベルではテロ、戦争に至る可能性がある。核、化学兵器はいうに及ばす、銃や刀剣、素手でも殺傷能力がある。テロも戦争も本人の意思とは関係なく強制的に命を奪い、体を傷つける。舌戦も度が過ぎると言葉の暴力は相手を精神的に傷つける。どうすればテロや戦争を失くせるのか。米国の核の傘のもとにいる日本ではコンセンサスをさぐるにしても議論が本質まで届かない。核も核の傘も前提としない日本の進むべき道はあるのか、そろそろ本気で検討すべきではないでしょうか。近隣の独裁国家が核にこだわるのは、ある意味わかりやすい選択なのかもしれない。日本の現政権が軍事力強化をうたうのも具体性がありわかりやすい。一方これに反対側の反論には具体的イメージが抱けず説得力がない。その為に目下のところ議論や討論で言葉が弱く共感をえられない。このまま進めば、集団的自衛権、チーム、同盟の名のもとに、かつてのような危ない方向に進んでゆく可能性が高まるので恐ろしい。唯一の被爆国として、その経験をいかして核抑止力も必要としない平和主義の進み方を探るべきではないのか。国政選挙ではこの論点には深入りなく投票し、選ばれた議員たちもそのレベルとは距離を置いた政治をするのである。米国ではエスタブリッシュメントと言われる層の候補が敗れ、前予想に反したど素人といわれる政権が誕生して、批判されながらも未だ根強い支持率を保って奮闘している。欧州や日本からは批判もあるが流石米国である。より良い方向を求めてもがきあがいている。それが形として表れているのである。翻って日本はどうか。お役人が国家予算を配分することによって力を持ち、政治家は口利きで太る。果たして何人の人が本当に国家の行く末を考えているのか?企業も経営幹部のうち何人が会社の行く末を考えているのか? チームの勢力堅持、権力と保身志向が根強い。国と国との関係が舌戦をこえてエスカレートし、武器の使用に向かうのを防ぐには、どうすればよいのか。単一民族である日本には多様性を認める風土がない。では仲間の中の多様性をどう受け入れるか。単一民族であってもより細分化すると一部は仲間でなくなるかもしれない。単一民族であるための定義、範囲、限界のラインははっきりしているか? 仲間の中には性格にも差があり体力の差もある。グレーゾーンは大きいのか?グレーでない人がクループを組むと、排除されたグレーゾーンの人はどこに属するのか。グレーだけでグループを組むとして、グレーにも濃淡がある。かつてロンドンに在勤したころ人種、居住非居住関係なしに、道を尋ねたり、目で挨拶のサインをしあったりして、流石国際都市と思ったが、これが多様性を受け入れるということか。英国料理ということばはあまり耳にしない。一方でロンドンの中華料理、イタリア料理がどこよりもおいしいという人が多い。多様性国際性がなしえる業か。料理がそれをシンプルに語っている。多様性を直感的、生理的に受け入れるのに限界があっても、人をリスペクトし、大人としての対応は可能ではないかと。最低それができるようにすることが平和への道ではないかと。

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(去年に続いて、今朝突然目に入った。今年は一本増えて二本に。我が家のサルスベリは特殊な品種で、開花が遅い。でもことしは少し早かった。今年の後半は吉か?)