車は自分で体洗えない

洗車場のドキュメンタリーで、’車は自分で体洗えない’って言っていたのを思い出す。飼い犬のマックスとチョコに日に二食、間食と寝る前のおやつ、そしてトイレの始末。自分でできないのはどんな気分だろうか。介護される方は有難いと思う一方で、自分でできるとどんなにかうれしいと思うのだろう。犬がどれほどの思考をするのかわからないが、飼い主としては責任を愛情で維持する義務がある。人間の赤ちゃんはしばらくは犬と同じ期間がある。自分でできるようになると自由を手に入れる。自由も色々。国際線のFクラスは食事を自由に取れる。めったに乗ったことのない自分にはその自由はかえって不自由だった。自由主義の国にいる自分から共産主義や中東方面の国々を見ると、深く考えなくとも自由がありがたいと思う。ところが最近、どちらの言い分が正しいのかとかじっくり考えてみると、単純ではない。ただ、共通して言えるのは暴力はどんな理由があろうと言い訳できない。一人一人の人間の命、健康は尊重されるべきである。情報統制はどうか。言いたいことが言えないのは、その時点で成長がストップする。様々な意見を調整することによって脳細胞がその先を考えあがくのである。ほんとの成熟社会とはそのようなものなのかもしれない。

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テーブルヤシさん、長い間ご苦労様でした。これからは私くしが

このテーブルをイヤシして行きます。)