右の頬を打たれたら

敬虔なクリスチャンでも左の頬を差し出す人がすべてではない。人種・国籍でも一様ではない。今年古希を迎えた自分の経験として、宗教、国籍、人種でカテゴライズできるものではない。いろんな人がいる、いてもいい。確かに、宗教や国籍、人種で大まかな特徴があるのでしょうが、人として付き合い、接した感じでは、そのくくりは意味をなさないと思っている。どのくくりにおいても、困った性格の人はいるものである。この方が権力を握ると不幸な人がふえる。そして権力者を支える多くの人が生まれる。これ人間のさがなり。かなしいかな。人命を軽んじる権力者。人命は大事、大事がゆえに自国の人命を守らんがために他の国の人命を軽んじる。だから他国の人命を重んじてもその国の権力者が自分の国の人命を尊重してくれないなら攻め込まれる。だからその前に他国の人命を奪う、などというのは詭弁である。過去はどうあれ、問題、課題の解決のために人命を奪う方法は最後の最後に、いやあってはならないといっても言い過ぎではない。それほど個々の人命は尊重されなけれはならない。古希を迎えた今現在の結論である。人命に差はないのであると。

ネジバナのねじれは右まわり、左回りの両方がある。朝ドラて言っていた。

 我が家に自生したネジバナもその通りだった。)