一線を越えるということ

ロシアが一線を越えた。もう元には戻れない。終戦となっても。人命を軽んじたことは言い訳できない。一方で、国際関係や社会一般、そして人間関係や日常生活での行動ではこのラインの向こう側は悪いことだけではない。良いことも多いように思われる。一線はどこにでもあるがそれぞれの重みはちがう。むしろ一歩を踏み出す勇気が大事でもある。これまで幾度一線を見つめながら引っ返してきたことか。その先のことを恐れすぎているからか。自分をおいつめることで一線を越えることができる。人間力があれば。レッドラインというのは通常の一線とはちがう重みがある。超えてはならないのだ。一線はつねに身近に存在し、近づいたり遠ざかったりする。通常なら一線とは距離を置いて行動する。冷静な人、冷静な時にはなおさらか。来年は古稀、いくら頑張ってもその先30年は無理か。せいぜい10年が踏ん張りどろである。ロシアの次に一線を越えそうな近隣諸国の行く末も気になるが。この先自分の一線を身近に感じることがあるだろうか、そしてここぞと一線をこえることがあるだろうか。終活にあせる自分を人ごとのように思いながら眺めている冷静なもう一人の自分。はたしてこの今の瞬間は存在している。

(上、下ともにロンドン在住時代に購入。なつかしい思い出の食器。トーマスタンクエンジンには家族で乗車体験しました。)